ヒッチコックの「めまい」は映画史のなかでも一、二を争う名作という評判。上はソウル・バスによる「うずまき」デザインのオープニング。これは「めまい」を表現しているのだが、劇中に登場するヒロインのアップにした髪型が「うずまき」状になっていたりとディテールにこだわっている。
【あらすじ】
ジェームズ・スチュアート演じる主人公スコティは高所恐怖症である(それがタイトル「めまい」の由来)。ある日、旧友から「私の妻が先祖の霊に取り憑かれている。毎日どこに行っているのか突き止めてほしい」という電波な依頼をされる。
スコティは旧友の妻マデリン(キム・ノヴァク)を尾行するうちに彼女の不可解な行動を目の当たりにし「ほんとに霊に取り憑かれているのかも」とおもう。
そしてスコティはマデリンと接触。二人は恋に落ちる。しかし錯乱したマデリンはスコティの目の前で教会の塔から投身自殺してしまう。スコティは高所恐怖症のためマデリンの自殺を阻止することができなかった。スコティは自責の念にかられ精神病になってしまう。
一年後、街中でマデリンそっくりのジュディに出会う。しかし実はそれはマデリン自身だった。
つまり、スコティの旧友は自分の妻の殺人を隠すため、ジュディを雇い、スコティにはジュディを妻だと思わせて偽の投身自殺の証人に仕立たのだった(高所恐怖症のスコティには投身自殺を防げないという計算もある。実際に塔から落ちたのはすでに死んでいた旧友の本当の妻)。
本当にスコティを愛していたジュディは彼をだましていたことに苦しむ。そして過去を捨て「ジュディ」としてスコティの愛を得ようと決心する。
しかし、スコティはジュディをマデリンに近づけようとする。マデリンと同じ服と靴を与え髪の毛の色も変えさせる。その様はまさに病的。ジュディは傷つきながらもスコティの要求に応える。
あるキッカケでジュディはマデリンであり自分がだまされていたことに気づいたスコティはジュディを教会の塔につれていき問い詰める。ジュディも真実を告白する。そして二人が愛を確かめ合ったのも束の間、突然あらわれた影に恐怖したジュディはあやまって塔から落ちてしまう。その影はただの修道女だった。スコティは絶望した表情で塔の下を見下ろすのだった。
と、こんな感じ。
この映画は前半と後半がちょうど一時間で分かれるのだが、そこで物語がガラッと転換する。前半が憑依モノを装ったサスペンス。後半は切ないラブストーリー。主人公も後半はジュディになる。
しかし、また違う解釈もあるそうで、後半はすべて病んだスコティの「頭のなかでの出来事」という解釈もあるそうだ! これはすげー。
前半と後半が転換する場面で、スコティが悪夢にうなされ、次のシーンでは精神病棟で自分の殻に閉じこもった状態になっている、という描写がある。この場面でスコティは一番親しい女友達のミッジがちかくにいるのにそれを認識することができない。
ミッジは悲しげに言う。「わたしがここにいるのもわからないのね」と。
そして次の場面で唐突に屋外のシーンとなりスコティはジュディと出会うのだ。不自然である。だって直前のシーンまで廃人のようだったスコティが普通に外を歩いているのだから。それについてなんの説明もない(そういえば導入部のスコティが高所恐怖症にいなるキッカケの事件で、スコティがどうやって助かったのかの説明もない。まさかここまでがリアルであとは全部もウソって解釈!?)。
後半では、前半で重要な役で登場していた女友達のミッジが後半ではまったく登場しなくなる。つまり後半からスコティの「頭のなか」だという解釈だと、「わたしがここにいるのもわからないのね」といったミッジ自身の言葉のとおり、スコティの「頭のなかの世界」ではミッジは存在しない。だから後半にミッジが登場しないのだ、という論理になる。
こりゃすげー。
愛するマデリンを失ったスコティはその苦痛に耐えられず自分のなかの世界に閉じこもり、その世界でマデリンは死んでいないことにする。つまりサスペンスだったと。しかし結局、「頭のなかの世界」でも彼女を失ってしまう。もし、「頭のなか」解釈が正しいとすると、スコティはこの後「ジュディに出会い~失う」というループ世界に生きていくことになるのだろう。おそろしい。
たしかに「頭のなか」解釈だとシックリくることもあるが、「そのまま」の解釈もできる。つまり、すべては現実、という解釈。それはそれで残酷だが……。
こりゃすげー。
愛するマデリンを失ったスコティはその苦痛に耐えられず自分のなかの世界に閉じこもり、その世界でマデリンは死んでいないことにする。つまりサスペンスだったと。しかし結局、「頭のなかの世界」でも彼女を失ってしまう。もし、「頭のなか」解釈が正しいとすると、スコティはこの後「ジュディに出会い~失う」というループ世界に生きていくことになるのだろう。おそろしい。
たしかに「頭のなか」解釈だとシックリくることもあるが、「そのまま」の解釈もできる。つまり、すべては現実、という解釈。それはそれで残酷だが……。
「すべてがリアル」解釈だとこの映画の構成は……
【前半】すべてはウソ。結局スコティは利用されてた。
【後半】ジュディがスコティの愛を獲得しようとするもジュディの事故死でバッドエンド。
と、なる。これが「頭のなか」解釈だと……
【前半】霊に取り憑かれた(またはそう思い込んでる)マデリンが錯乱して死亡。
【後半】現実を受け入れられないスコティの妄想。そしてループ。
という風になる。
ヒッチコックは意識的にどちらにも解釈できるような話にしたのだろうか? それならば彼はやはり天才である。
で、まったく個人的なことだが、ヒッチコックと黒沢明の映画には共通した感触を感じる。一体それはなぜだろうか? 自己分析すると、両者とも「映画的」だからだろうとおもう。ヒッチコックも黒沢明も現在の「映画的カタルシス」の基盤を築いた人だからだろう。
saturdayseptember282013













