このあいだやっていた作家の高橋源一郎氏とコピーライターの糸井重里氏の対談がとても印象にのこっている。
高橋氏いわく、記憶や思い出は本来「断片」なのだという。それを作家はつなぎあわせようとする。物語にしようとする。「連続」したものにして意味をあたえようとする。
対照的に詩とは「断片」のままなのだそうだ。ただそこにそのまま「ある」のが詩だと。それが物語と詩のちがいだと(とても共感!)。
われわれは「日常的時間」に生きている。こどもの頃は「神話的時間」に生きていた。「連続」ではなく「断片」のままの時間のなかに生きていた。と高橋氏はいう。
そしてわれわれはふたたび「神話的時間」にもどる日がくるという。年老いて人はいろんな「しがらみ」から解放されていく。人間関係や仕事といったものから、知識や記憶からも解放されていく。時間が「連続」ではなく「断片」になる。そのときわれわれはふたたび「神話的時間」に生きることができるらしい。
そういえば、こどものころに比べると日々はただ過ぎ去っていくのみだ。あの頃のようなキラキラした時間はない。すべてに意味があったような濃厚な時間が。
でもぼくらはふたたびその時間を手にいれることができると高橋氏はいう。この渇いた時間が人生のほんのひと時にすぎないのだとしたら、またあそこに帰ることができるのだとしたら、人生も捨てたもんじゃないかもな。なんて思ったりするw。
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