映画はすべてが「メタファー」だ。小説みたいに「地の文」で説明することができないから映像のメタファーで心理描写や背景説明するしかない。それが映画表現の「偏り」であり、「魅力」だ。
小説を読むという行為は、その小説世界を自分の中で構築する行為。文章を読みつつ、脳内でその情景をつくり出す。「文章を読む」という行為自体に快感がある。
「舞台劇」と「映像劇」は似て非なるもの。演劇臭い台詞回しの映画を以前観たことがあるが、映画として成立していなかった。両者はまったくの別物なんだとそのとき悟った。
かのニーチェは「悲劇の誕生」のなかで「『悲劇』は、アポロ(造形美術)とディオニュソス(音楽)の融合した最高の芸術」と言った。たしかに音楽的要素を感じる。
音楽は「時間」から逃れられない。メロディーはつねに変化することを宿命づけられているし、リズムは「今」を一瞬先の未来へと押し進めようとする。
小説や演劇や映画や漫画も同様に「変化」し前に「進んで」いく。「Aメロ→Bメロ→サビ」のように展開していく。G7からCに解決するときのカタルシスがある。
脚本やシナリオの書き方は、絵を描くときに「下書きをして全体の形を決めつつ、徐々に筆を加えてディテールを固めていく」ように、プロット作りや箱書きを徐々に進めて仕上げていくといわれているが、「絵を描く」というよりも「作曲」に近いのではないかと最近思うのであった。
うむ。しかし「映像劇」という言葉は「映画」よりも映画をうまく表しているな。
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