Theピーズ「三度目のキネマ」@東京キネマ倶楽部


鴬谷にある「東京キネマ倶楽部」というところで行われたTheピーズのライブに行ってきた。東京キネマ倶楽部は元グランドキャバレーであったらしく、今ではライブの他に上映会やプロレス会場などイベントスペースとして運営されているよう。

じつは鴬谷はワタクシにとってなじみの場所なのであります。というもの、鴬谷にある高校に通っていたし、鴬谷で働いていたこともあるのです。だから庭みたいなもんなのです。

しかし他の街がどんどん変化していってるというのにこの街は全然変わんないな。パチンコ屋がなくなったり、ラブホテルがリニューアルされてたことくらいしか変わってなかった。

さて、この大正ロマンなライブハウスにはじめて入ったのだが、なんと雰囲気のあるライブハウスなことか! ステージ後ろに垂れている幕のひだひだが妙にいやらしかった。

Theピーズのライブのほうも絶好調でアツかった! 年甲斐もなく「おしくらまんじゅう」してきちゃったZ!

憧れの佐藤シンイチロウ先輩はビールを呑みながらのリラックス・モード(ピロウズじゃありえんなw)。で、リラックスして本性が露になるのか、いつもより「荒れた」ドラムだった。パンクロック・ドラマーの本領発揮か!

シンちゃん先輩のドラムはダイナミクスがすごい! 音がデカい! そしてまったくタイムがズレない! 私の理想のドラマースタイル。オイラもああいうドラマーになりてぇー!

ワタクシ、来月もこの東京キネマ倶楽部に来る予定です。次回はザ・コレクターズで。この会場にコレクターズは映えそうだなぁ〜。今から期待しちゃうZ!


鴬谷駅プラットホームから見たラブホテル街

自作PCプロジェクト

長年愛用しているMacもそろそろくたびれてきたようで近頃めっきり重くて遅い。それにこの前購入したビデオカメラのフォイル形式を認識しないなど、時代から取り残されている感も否めない。

というわけで新しいコンピュータの購入を検討しているわけだが、「もうMacはいいかな」と考えはじめている。MacにしろWindowsにしろメーカーの仕様に縛られるのにも嫌気がさしてきたというところ。

というわけで、前々から夢見ていたUNIX/Linuxの導入を実行に移そうかと目論んでいる今日この頃なのである。ついでに前々から夢見ていた「自作PC」にも挑戦しちゃおうか、という。

つまりは「Do It Yourself」精神である。安上がりだし。

で、いろいろ調べた。

どうやらCPUのクロック周波数は3GHzで頭打ちらしくそれよりも「コア数」で性能の向上を図っているらしい、と。「コアって『デュアル・コア』とかのあれか?」くらいの知識しかない自分。巷でちょくちょく耳にする「並列処理」なんぞもこのあたりのことらしい。

そして、CPUといえば「intel入ってる」くらいしか知らなかったが、じつは自作PCマニアの間では「AMD」というメーカーが主流だったりするらしい。なんせコストパフォーマンスにすぐれているし、後方互換も考慮されているので「CPUを付け替えて性能の違いを実感する」といういかにも自作PCマニアっぽい楽しみ方ができるらしい(裏を返せば、intelは後方互換を切り捨ててるということか)。

そしてコンピュータの組立てって「工作」。プラモデルより簡単そう。コンピュータの中ってブラック・ボックスみたい感じて畏怖してしまうけど、自作すると「ただの機械」なんだなと思う。

高級言語だとコンピュータの構造と乖離しててCPUとかメモリとか意識しないけど、アセンブリ言語だと機械と直結してて「コンピュータのやってることって至極シンプルなんだな」なんて思えるのと似てる。たぶん自分でOSとか作っちゃうハッカーたちってこういうコンピュータの構造を頭ん中でイメージしながらプログラミングしてんだろうな。

映像劇などについての雑記

映画はすべてが「メタファー」だ。小説みたいに「地の文」で説明することができないから映像のメタファーで心理描写や背景説明するしかない。それが映画表現の「偏り」であり、「魅力」だ。

小説を読むという行為は、その小説世界を自分の中で構築する行為。文章を読みつつ、脳内でその情景をつくり出す。「文章を読む」という行為自体に快感がある。

「舞台劇」と「映像劇」は似て非なるもの。演劇臭い台詞回しの映画を以前観たことがあるが、映画として成立していなかった。両者はまったくの別物なんだとそのとき悟った。

かのニーチェは「悲劇の誕生」のなかで「『悲劇』は、アポロ(造形美術)とディオニュソス(音楽)の融合した最高の芸術」と言った。たしかに音楽的要素を感じる。

音楽は「時間」から逃れられない。メロディーはつねに変化することを宿命づけられているし、リズムは「今」を一瞬先の未来へと押し進めようとする。

小説や演劇や映画や漫画も同様に「変化」し前に「進んで」いく。「Aメロ→Bメロ→サビ」のように展開していく。G7からCに解決するときのカタルシスがある。

脚本やシナリオの書き方は、絵を描くときに「下書きをして全体の形を決めつつ、徐々に筆を加えてディテールを固めていく」ように、プロット作りや箱書きを徐々に進めて仕上げていくといわれているが、「絵を描く」というよりも「作曲」に近いのではないかと最近思うのであった。

うむ。しかし「映像劇」という言葉は「映画」よりも映画をうまく表しているな。

この世界はやはり不条理なのか?

不条理。

若いころにはその言葉の響きがカッコ良くて、カフカなんぞを気取って読んでたりもした。しかし正直、そのころの自分にはカフカの小説はチンプンカンプンだった。そして「不条理」の意味をちゃんとわかっていなかった。その意味を「実感」として理解したのはここ最近のことだ。

先日、リビアのカダフィー大佐が殺された。マスコミは「死亡」なんて曖昧な表現を使っているが、あれは明らかに「処刑」だ。

「アラブの春」といわれる北アフリカの市民革命は永らく君臨していた独裁権力は打倒した。しかしその先にあるのはきっと「平和な民主国家」なんかではなく「新たな権力争い」だろう。

ラストキング・オブ・スコットランド」という映画がある。ある男がクーデターを起こすと国民たちは彼を英雄と讃え、歓喜で迎えた。しかしその男はのちに独裁・虐殺・粛正を行い、最後には国を追われた。そのとき国民は彼がクーデターを起こしたときと同じように歓喜して祝ったという。

独裁者も愚かなら、国民も愚かだ。権力は腐敗するし、歴史は残酷だ。

カダフィー大佐もクーデターを起こしたときは英雄として国民に迎えられたのだろう。そして革命を起こした市民たちは裁判もせずカダフィーを処刑した。なんだか「ラストキング・オブ・スコットランド」とダブるのは気のせいでもないだろう。

この世界は不条理で出来ている。いまならカフカの小説がしっくりと読めるかもしれない。

Bunker Palace Hotel(バンカー・パレス・ホテル)



1989年。フランスのSFファンタジー映画。Wikiによればそれなりの話題作だったらしい。

僕が中三か高一くらいのときにこの映画を観たはずだが、この動画を見てもまったく内容が思い出せない。「バンカー・パレス・ホテル」というタイトルだけ辛うじて覚えているくらい。

当時、僕は「近未来モノ」の映画を物色していた気がする。「1984」とか「未来都市ブラジル」とか。そして、どこで知ったのか、その頃の自分はこの映画を見つけてきたのだった。

東京では中野の単館上映だったので、一人で中野まで観に行った記憶がある。そのころの僕には中野の路地裏にひっそりとある小さな映画館に入ること自体が初体験の冒険だった。小心者の僕は結構ドキドキしてたはずだ。

僕はこの映画に「サイバーパンク」的なものを期待していったのだけど全然サイバーじゃなかった。でもそれなりに楽しめた、と思う。

このとき、会場内にはチラシがたくさんあって、そのどれもがマニアックでアングラなチラシばかりだった(STDを説明したチラシとか)。当時の僕はそのチラシに「パンク」を感じていつまでも大事にとっていたっけ……。

映画自体にはなんの影響も受けなかったけど、はじめてのアングラ体験をさせてもらった記念的な映画として僕の記憶にある一本なのです。

【補足】
もしかしたらその映画館はここかもしれない。→ 中野武蔵野ホール

数年前に探しに行ったとき見つからなかったんですが、2004年にすでに閉館してますね。ここの写真にある会場脇のチラシスペースに覚えがあるような……。

既得権益というものについて考えてみた

巨大な特権を持ちながら時代にそぐわなくなった組織・集団てありますね。いわゆる「既得権益」というやつ。

たとえば、官僚とか検察とか記者クラブとか経団連とかナントカカントカ……。これら既得権益を破壊すれば公正で公平な世界が待っていると考えてる人も少なくないのでは?

きっとこれらの既得権益組織も、高度成長期あたりには時代にベストマッチしていて国が急成長するには最適なシステムだったのでしょう。が、そんな有益な組織も長い年月変わらずにいれば中身は腐っていくし外の変化についていけなくなるのは、コレ、宇宙の理(ことわり)。

しかし、そこは腐っても長年この国を支えてきたシステム。破壊したあとには「混乱」と「失望」が待っているかも。この前の政権交代のように。

自民党政治には嫌気がさしていたし、歴史の必然として自民党体制は壊さなければならなかったのでしょう。しかし結局、代わった民主党はみごとに期待を裏切ってくれて、元々高くなかった日本の政治力がさらに地盤沈下したといっても過言じゃない。もう国民の多くが政治家に期待してないし信用もしてないと……。

他の分野でも既得権益を潰せば似たようなことが起こるかもしれない。たとえば、「原発事故を起こした東電を潰して発送電分離して電力業界に自由競争の風を」といった理想も、現実になってみれば「混乱」と「失望」が待っているかもしれない。記者クラブをなくしたって日本のジャーナリズムはたいして変わらないかもしれない。

しかし「新陳代謝」がないことは「生命活動」が止まっていると同義。きっと古い細胞(既得権益)は潰していったほうがいいのでしょう。じゃなきゃ、その先には「老死」しかないのだから。

権力が小さくなっていく

最近、よく思うのは「政府」というものがひどく小さな存在に感じるということ。

世界的にも「政府」というシステムが力を失ってきているんじゃないかと感じる。それに反比例して「個人」というものが強くなっていってるように思う。このことは「ネットワークの発達」と無関係ではないだろう。

エジプトやチュニジアやリビアでは、なんの力も持たない「個人」がSNSに集い「渦」になり長年権力を独占してきた独裁政権を倒した。

そして、個人的に、なによりも「政府」が小さく感じたのは、3.11以降のこの日本政府の対応だった。

まるでダメダメだった。

「平常時に国民不在なことをしてきた政治家や官僚たちも、こんな未曾有の大災害に直面すれば内に秘めた使命感を発動させて、彼らの有能さを国民のために、いや、せめて被災者のために発揮してくれる、きっと」心のどこかでそう信じていた……。

しかし彼らは相変わらずだった。いや、むしろより鮮明に彼らがどういう行動原理で動いているのかが浮き彫りになった。

政治家は政局の舞台で踊りつづけ、まるで「コント」を見ているようだった。

官僚は「国民のため」なんて考えは微塵もなく、自分らの「なわばり」を守ることにより必死になっていった。

経産省は事故の収束より原発政策の維持を。文科省はこどもの健康より学校運営を。財務省は復興より増税を。

官僚たちも一枚岩じゃないと知った。各省は自分の組織の都合を優先させる。そこに「国家」とか「国民」というものが見えてこない。以前はそういう気概を持っていたのかもしれないが(そう信じたい)、いまは会社全体の利益より自分の部署の都合しか考えないサラリーマンと同じだ。本能に正直で人間臭いといえばそうかもしれない。

彼らはジョージ・オーウェルの「1984」みたいな支配的な存在じゃない。もっと「こじんまり」とした小さな存在なんだ。彼らも僕らと同じようになによりも自分が大事なんだ。だから問題は根が深いとも言える。だって「自分の身を守る」本能は一番根源的な本能だから。

そもそも権力なんてものは本質的に脆いものなのかもしれない。ネットワークの発達は「個人」を強調する。良くも悪くも。それが相対的に権力を小さくしていってるのだろう。