3ピースでスタジオへ

ひさしぶりにバンド演奏をした。

元同僚とその彼女と三人でスタジオに入った。久方ぶりのバンド演奏はなかなかたのしかった。

体の使い方はいまいちで固かった。キックやロールに力が入ってた。右手の親指の爪が痛い。

ウラはたま~に鳴ってた程度だった。それでも少しは掴めた感じはある。

呼吸はよくできた。呼吸のおかげで演奏が締まった部分もあった。

バンド演奏はなによりも得るものが大きい。一番の練習になる。これは定期的に行いたいな。

thursdayaugust292013

近未来をイメージする

「集合知」という言葉がある。一人の優秀な頭脳よりも多数の一般的な頭脳のほうが良い判断をし、より良い未来へ導く。というもんらしい。それが数学的に証明されているらしい。

著者は、この「集合知」がルソーのいうところの「一般意志」に相当するという(一般意志の現代版ということで「一般意志2.0」と名付けられている)。ちなみに「一般意志」とは「つねに正しく、つねに公の利益を目ざす」ものであって「特殊意志(個人の意志)」の総和である「全体意志」とは違うものなんだそうだ。

著者はそれを民主主義に反映させようという(「民主主義2.0」)。当初は直接民主主義のことを言ってるのかと予想してたがまったく違っていた。具体的には議事堂のなかにモニターをおいてニコニコ動画のように国民のツッコミを入れるという。とてもSFの匂いがする(著者はSF作家でもある)。

方法論はともかく「国民の集合知を政治に反映させよう」というアイデアは素晴らしいとおもう。ネットを使って直接民主主義を行うことには「現実的でない」と著者は言う。たしかにそうかもしれない。
また「日本2.0」では「ゲンロン憲法」なるものをつくっている。総理の直接選挙制や観察院・人事院の独立などいろいろな特徴があるがこれは「リベラル憲法」だということだ。

ゲンロン憲法の一番の特徴はやはり「国民」と「住民」という概念だろう。「国民」とは日本国籍を持つ者で現憲法のそれと同じだ。海外在住でも日本国籍があれば「日本国民」ということになる。一方「住民」とは日本の国土にすんでいる者をいう。そこには日本国民だけでなく在日外国人も含まれる。つまりはこの「住民」にも参政権を与えようという考えだ。

現在の日本のもっとも重大な問題ともいえる財政と社会保障の危機は少子高齢化と人口の減少に主な原因がある。それをかいけつするには外国人の積極的な受け入れしかないと著者は言う。賛成である。この国の排他的なローカル・ルールには辟易しているので外界の遺伝子を受け入れ価値観や思想やシステムなどどんどん進化させるべきだとおもう。

あと二院制の設計を独創的だった。そこで世界の二院制を調べてみたところ、いろいろ面白いことがわかった。たとえば英国の貴族院は一代限りの貴族の称号を得た有識者で構成されている。その他にも任命制だったり間接選挙制だったりと世界の上院(日本の参議院)は選挙制度や役割において下院(日本の衆議院)と差別化しようと努めている。上院はその高い識見により下院を監視、助言する役割を担保しようとしている。

ゲンロン憲法での参議院(国民院)は国家I種のような資格の合格者や博士号取得者、一部上場の経営者などを条件にしている。そして国外の外国人にも被選挙権がある。

まあ、そこまでしなくても参議院の個性化は必要だとおもった。

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thursdayaugust292013

ゲイジュツにおける三つにステージ

ゲイジュツには三つのステージがあると個人的に思っている。

第一段階は「鑑賞」のステージである。

小説を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、絵画を観たり……ゲイジュツを楽しむ態度である。「鑑賞」も立派なゲイジュツ活動であるとは岡本太郎大先生もおっしゃっている。

しかしこの段階は楽である。なぜなら受身だから。すでにあるものに対して「おもしろい」とか「つまらない」とか言っていればいいから。

しかし「鑑賞」はゲイジュツ活動の基本である。

第二段階は「模倣」のステージである。

絵画を模写したり、楽器を奏でたりして、自分もそのゲイジュツ活動に参加しようとする態度である。これは「鑑賞」ほどお気楽ではない。技術を習得し、自らの肉体と対話しなければならないからだ。

そして時間がかかる。ある意味終わりはないと言える。しかし「模倣」のなかから「自分」を見つける作業であるとも言える。

第三段階は「創造」のステージである。

小説を書いたり、絵を書いたり、作曲したり、と作品を作り出そうとする態度である。これは究極である。困難の道程である。面倒くさい作業である。見返りはない。

「創造」することだけでも困難なのに、「創造」が手段になり結果や報酬を求めるようになってはいけない。そうではなく「創造」すること自体が目的にならなければならない。

ほとんどの人がここに辿り着けない。それでも辿り着きたい。

sundayaugust182013

休息

2週間の休息。

本を読み、映画を観て、楽器を奏で、物語を紡ぎ、酒を呑みながら積年の垢を落とそう。

あ、あと試験勉強もね。
fridayaugust162013

孟嘗君

孟嘗君全五巻読了す。

正直なところ、前回読んだ「太公望」とともにあまりおもしろくないという印象だった。最後の章までは……。

最後の章で怒涛のクライマックスが待っていた。いままでのすべてを集約した。そして生き別れた息子との邂逅。仁義を重んじ、人を愛し、人に愛された人のお話。

しかし、思うところもある。

物語に登場人物は「良いところ」ばかりじゃなんの魅力もないってこと。弱点やダークな部分があってこその個性だ、ってこと。

とくに女性の描き方が画一的というか、美女しか出てこない。それしか個性がない。「それってどうなの?」と正直おもってしまった。

人間描写が苦手な作家なのかもしれない。

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mondayaugust122013

シャイニング


近頃、昔の映画で見てないものを見ている。

で、「シャイニング」を見た。スンタリー・キューブリックは映像美が有名だけど、たしかになんでもないシーンの映像ですら美しかった。なんなんだアレ? キューブリックすげー! としか言いようがない。

さて、この映画の原作はスティーヴン・キングなのだが、映画は原作をめちゃくちゃ改変してまったく「別物」になっているらしい。

ちょっと調べたところ、主人公のジャックは元々気弱な性格であった、それが邪悪なホテルの意思によって凶暴な人格に変貌する、ジャックの妻は自立した女性である、ジャックの息子のダニーの超能力が物語の「鍵」になる、黒人の料理人ハロランはもっと重要な役回りで登場する、などなどの相違点があるらしい。

たしかに、ジャック・ニコルソンじゃなくもっと優しげな俳優のほうが精神を乗っとられたときのギャップが引きたてられたんじゃないか、とは思った。しかしジャック・ニコルソンの怪演は凄まじく、彼の演技だけでも観る価値はあるのだが……。

それに息子ダニーの超能力(シャイニング)がほとんど活用されず、その設定がなくても物語は成立するくらいだった。また同じ理由でハロランの存在意義も希薄だった。

原作の小説はそこらへんをきちんと回収して物語としての完成されている印象をうけた(読んでないけど)。

また、映画はイメージのカットインなど多用し芸術色が強い作品なのだと感じた。

ま、映画は映画で「アリ」だと思うし、この映画が素晴らしいことは誰しもが認めるところでしょう。

wednesdayaugust072012

バカでクズでカス

オレはバカでクズでカスだ。それはもう、どうしようもなく否定できない。

しかし、それは性質だ。変えようのないもの、だ。

だから、それはそれとして認め、受け入れるしか、ない。

それとは関係なく、「努力」については評価してもいいと思う。自分の「努力」を自分が認めてもいいと思う。それくらいは罪のない行為だと思う。たとえオレが罪深い人間だとしても。

thursdayaugust012013

オフ・ビートがリードになる

久しぶりにスタジオに行き、生のドラムを演奏してきた。

手足に痛みもなく疲労も少ない。つまり、力まず演奏できたということだ。スネア・スタンドとスネア用の消音パッドを購入し練習セットに導入してから、そのあたりの上達がめざましい。うれしいことだ。

「打つ」と「落とす」だ。腕は「叩く」ではなく「打つ」、足は「踏む」ではなく「落とす」。この感覚が大事だ。それができれば手足に負担がない。

そして、オフ・ビート(裏拍)である。

オフ・ビートがリードになる。シンバル・レガートがリードの役割を果たすのではない。オフ・ビートをつねに歌うことでテンポはキープされる。

そして「呼吸」。

普段の呼吸のように無自覚に「吸って吐いて」をくりかえしながら演奏するなんて本来できないのではないか。「身体をコントロールする」ということは呼吸を意識せずには不可能ではないのか。

ドラムに限らず、楽器を演奏するという行為は「身体との会話」だ。それは理屈抜きに価値のある行為だとおもう。

thursdayaugust012013