唯識を簡単に言ってしまえば「唯(ただ)識(し)ることのみがある」という哲学で、「『私』の見ている世界は『私』が感じたり思考したりしてのみ認識できる。つまり、世界のすべては『私』自身がつくりだしたもの」みたいな思想。
「識」は八種類あり、五識(五感)と意識、無意識の領域にある二つの心の末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)がある。
- 五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)……五つの感覚。「耳なら音」「舌なら味」というふうに、それぞれ固有の対象を感じる。
- 意識……五識を統合し、「言葉」を使って対象を概念的に把握する。
- 末那識……「我」という心。
- 阿頼耶識……すべてのものを生みだす心。五識も意識も末那識も外界もすべて阿頼耶識が生みだしたもの。
これで想起したのが量子力学の「不確定性原理」だった。「不確定性原理」をものすごく簡単に言ってしまえば、「観測者が宇宙を観測してはじめて、宇宙が『存在してるか?』『してないか?』が確定する」みたいなカンジ。これも極論すれば「観測者が宇宙を創造している」ということになるらしい。いわゆる「コペンハーゲン解釈」。
人間の考えることは所詮に似てしまうものなのね。ああ、物理学だって宗教みたいなもんか。1,700年前に数学ではなくヨーガ(瑜伽)による深い自己観察によって、似たような結論に達した唯識派に驚愕! さらにフロイト以前に無意識の存在を認識していた仏教徒たちに敬意を!
さてさて、その唯識の主張は、私たちが外界に存在していると思っているモノは「私の心(阿頼耶識)」が生みだした虚像・仮象であり、客観的な存在というものはない、というもの。そして、とどのつまり、その阿頼耶識でさえ現象であり実体はないと説く。すべては無常であり「空」である、と。
仏教独特のこの「空」の思想は、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」的イデアや、老荘思想の「道(タオ)」などを飛び越えて、「存在」というもののさらなる深淵をとらえていると思わせる……う〜む。
で、仏教ではこの唯識や「空」の理論を知識として「知って」るだけじゃダメで、その感覚を体感し体得することを目指している。それを「悟り」という。その実践法が「ヨーガ(瑜伽)」、日本でいうところの「禅」なのである。だから「瑜伽行唯識学派」と呼ばれてるわけですね。
横山 紘一
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