NHKオンデマンドで「
古代中国 よみがえる英雄伝説 紂王と太公望~王朝交代 古代最大の決戦」を観た。
殷(商)と周の大決戦「牧野の戦い」についての番組。
まず中国史上最悪の暴君といわれる「紂王」が本当に暴君だったのかと疑問を投げかける。まあ、勝った側の周が語ったであろう歴史だから真実とはちがうだろう。史記も周の記録を元に「牧野の戦い」を書いたらしいし。
現在、「殷墟」というところに殷(商)の都の遺跡があり世界遺産になってるらしい。
まず殷(商)が当時の他の国とちがった点はその圧倒的な軍事力だった。その軍事力を支えたのが青銅の技術だった。まだ周りの国が石でつくった武器をつかっていたのに対し、殷(商)は青銅の武器をつかっていた。その圧倒的軍事力で周りの国々を押さえつけていた。
それに有名な「戦車」だ。木と青銅でつくられた二輪の戦車は高さ1.5m、横幅3m。それを二頭の馬で轢かれていた。殷(商)以前に中国で戦車は発見されていない。つまり殷(商)がはじめて戦車をつくったことになる。なぜ殷(商)は突然戦車をつくれたのか? それは、殷(商)が西アジアとつながっていたことに起因すると考えられている。
世界史的に戦車がはじめてつくられたのはメソポタミアで、その戦車は二人乗りで車輪は板と板を張り合わせてつくられていた。メソポタミアが生み出した戦車はエジプト、インダスという四大文明の地域に伝わっていったが、中国への伝播は遅れた。なぜなら西アジアと中国の間には5,000m級のパミール高原があり、北に大きく迂回しなければ行き来ができなかったからだ。
中国の歴代の王朝が黄河のほとりに都を構えたが、殷墟は黄河から北に離れたところにある。それは西アジアとの貿易のためと考えられている。
殷(商)の戦車は独自に改良を加え、当時の世界の戦車のなかでも最も優れていた。たとえば車輪に使うスポークの数が、同時代のエジプトでは6本だったのに対し殷(商)の車輪には20本以上のスポークがあった。それにより強度が増し、三人乗りが可能になった。
有名な「酒池肉林」も殷(商)の文化から見てみると違った解釈が可能だ。殷(商)では「酒」は神とつながるために重要なものだった。神に近づくための陶酔を与える酒は儀式のなかでつかわれた。酒器は神聖な道具だった。酒を酒器に入れ温めて飲んだとされている。
殷(商)の青銅器の技術は究極のレベルに達していた。青銅は銅と錫と鉛の合金。厳密に管理された工場のようなものがあったと考えられている。
さらに殷(商)では牛・豚・羊の家畜化もすでに行われていた。地下水道さえあった(黄河から離れていたため水の確保が重要だった)。それは食料の確保が計画的に管理されていたことを示す。
「酒の文化」と「食料の豊かさ」。それがのちに「酒池肉林」として表現されたのかもしれないと番組では言っている。
さらに殷(商)は「文字」を発明した。それはいまでもつかわれている「漢字」だ。3,000年以上使われている文字は漢字しかない。殷(商)は文字(甲骨文字)を卜占につかっていた。卜占は王のみが行える神聖なものだった。それに対し、次の王朝「周」では文字は国と国の「契約」につかわれた。つまり、殷(商)から周への王朝交代は「神の政治」から「人の政治」に、「神権政治」から「封建政治」に転換したのだった。
殷(商)の儀式では人や牛の生贄を捧げていた。殷(商)の神は人の頭を食べるとされていた。「羌」とは人の生贄を指す。そして「羌」はあるひとつの遊牧部族であった。殷(商)の人々はその遊牧部族を捕まえ首を切り、生贄として神に捧げていたのだ。
高度に発達した文化と相反するような残虐性。しかしそれはいまのわれわれ現代人の感覚で測っていけない。それが当時の世界観だったのだから。
番組のなかで中井貴一が「人間が誰しも持っているの陰と陽の部分が殷(商)という王朝にはすごく表れている」と言っていたのが印象的だった。
さらに、悪女の象徴の「妲己(だっき)」だがその存在を証明する発掘はいまだない。これは殷(商)では女性の地位が高かったが、周では女性の地位が低かった。その文化の違いから生み出された存在なのかもしれない。
では、殷(商)を倒した周とはどんな国だったのか?
周は元々農耕を行いひとつの土地に留まる安定志向の国だった。それが紀元前13世紀頃に大きく変化する。殷(商)と積極的に関係を持つようになった。殷(商)に接近し急速に成長していった。
周は太公望が中心となって殷(商)包囲網を着々と築いていく。しかも表向きは殷(商)に取り入りながら、裏では殷(商)に気づかれないように密かに他の国々と同盟を結ぶという「強かさ」で。
周と同盟を結び「牧野の戦い」に集った八つの国を「牧誓八国」という。そのなかで「蜀」という国の存在が最近の発掘で明らかになっている。蜀は独特の「仮面文化」をもち、しかも殷(商)と同等の国力をもつ部族だった。これは「黄河流域しか文明はなかった」としていた中国古代史の常識を覆している。
殷(商)の包囲網が実際にあったとされる証拠として殷(商)末期、青銅器の発掘物が少なくなっているという。逆に周の青銅器の生産量が増えたという。それは周が銅の生産地を押さえ殷(商)に銅が行かないようにしたと考えられる。それにより国力が衰退した殷(商)だった。
さらに殷(商)の東側で反乱が多発しており殷(商)の精鋭部隊がそちらに行っているとき「牧野の戦い」が起こった。そしてたった一日の「牧野の戦い」で500年以上続いた殷(商)王朝はあっけなく滅んだ。
周は土地を各国に収めさせる代わりに貢ぎ物(税)を納めさせた。いわゆる「封建制度」だ。そして太公望は「斉(せい)」の国の開祖になった。
thursdayapril112013